欠席連絡

朝7時半過ぎに母に名前を呼ばれて目が覚めた。

「なに、」

「まーくんが気持ち悪いから今日は休むって言うんだけど。ちなみにこうへい君も今日はお休みなんだって。どう思う?」

こうへい君とは、弟がいつも一緒に登下校をしている近所の同級生の仲のいい男の子で、小学生の頃から仲が良く、中学でクラスは離れてしまったものの同じ帰宅部で登下校の時間が一緒だったため毎日顔を合わせ話をする彼らの日常に大きな変化はなかった。

目を擦りながら階段を降りて居間へ行くと、そこにはビニール袋を片手に背中を少し丸めて俯いて座っている弟がいた。

「どうしたの?」

「気持ち悪い」

「どこがどういうふうに?吐きそうなの?」

「ここらへんが気持ち悪い」

弟はそう言うとみぞおちのあたりに手を当てて私に教えた。

「うーん…」

私は少し考えた後に、あることを思い出してキッチンの方へ向かった。思い出したそれは私が引っ越しの時に持ってきた薬箱の存在だった。

「まーくん!お姉ちゃんそう言う時にぴったりな薬持ってるよ!お姉ちゃんもひとりで暮らしてたとき、仕事に行きたくなさすぎて憂鬱でお腹が毎日気持ち悪くて。でも仕事は行かなくちゃいけないでしょ?だから毎日これ飲んで行ってたんだよ。これ飲んで学校行ってそれでも治らなかったら帰っておいでよ?ね?」

私は薬箱から胃痛薬を3錠取り出して弟に差し出した。時計を見ると7時39分。いつもなら家を出ていてもおかしくない時間だった。薬を飲んで今から準備すればまだ間に合う。最低8時までには出したい。弟に薬を渡して、またキッチンの方へ向かい、水の入ったコップを持ってきて「少し独特な味がするけど少しは効くから飲んでみて」と弟にコップを差し出した。

錠剤の匂いを嗅いでしばらく怪訝な顔を浮かべた弟だったが、口の中に3錠一気に入れてすぐに水を含み一回で飲み込んだ。思ったより減らなかったコップの中の水に一度視線をやり「結構1錠デカいのに一気に飲めるんだ、すご、私もそうだけど、君もそうだったのね」と言って褒めてるんだかバカにしてるんだか自分でもよくわからないことを言っていた。

「歯磨いた?」

私がそう訊くと弟は息を私に向かってフーっと吐いてみせた。なぜか弟は息を私に吐いてくることが多くて、と言うか弟は普段から自分の息をかけて相手を嫌がらせてふざけることが多くってまたこれもその悪ふざけの類だった。弟に限らず人間の朝イチの口臭が臭くないわけない。歯磨き粉のミント感は皆無、私は少し大袈裟に分かりやすく嫌がってみせた。

「うわっ、、、まずは磨いて」

「気持ち悪いから無理…」

この感じだと埒が開かないことがこのやり取りだけで分かった。

「じゃあ私が歯ブラシに歯磨き粉つけて持ってきてあげる」

そう言って起き抜けに降りた時の倍の速さで私は階段を登り2階の洗面台にある弟の歯ブラシに歯磨き粉を塗ってまた倍の速さで階段を降りて素早く歯磨き粉のついた歯ブラシを弟に渡した。

弟は黙ってそれを受け取って歯を磨き始めた。

恐らく母がつけたであろう、観ているのか観ていないのか分からないテレビの中では丁度目覚ましテレビからめざまし8にかわる前のスタジオとスタジオとの中継のやりとりの真っ最中で、そのことからもうすぐ8時になることを自覚した。現実から逃げるように私は近くにあったリモコンを押してテレビを消した。

「まーくん!はやくはやく!ほら、準備して!もしあれだったらママ送って行ってあげるから!」

化粧中の母が脇目で弟をチラッとみた後、また鏡に視線を戻して少し焦っているような早口な口調で言った。

「だって!よかったね、じゃあ早く頑張って準備しよう!歯磨きもうそれでいいよ、早くうがいしてきて、がんばって!」

弟は無言のままで引き続き不服そうな顔のまま、ゆっくりとまた2階へ上がってうがいをしてまたゆっくりと降りてきた。

「はい!着替えて!!」

私が制服を差し出しても弟は依然として無言と不動を貫いていて、嫌そうに私を見つめる目をよく見ると少しまつ毛が濡れていて、メガネ越しの目も微かに潤んでいるように見えた。

「休みたい」

「休みたいのはよくわかるんだけど、学校は行かなくちゃ、学校と同じことはさ、お家にいたら出来ないじゃん?私もまーくんくらいの時はなんでそんなに行かなくちゃ行けないのかわかんなかったけど、あそこでしか学べないことが沢山あるんだって。」

時計は8時5分を差しており、それはいつも母が家を出ている時刻だった。

「学校に連絡しといてくれる?」

「あーうん、わかった」

「じゃあ、宜しく。まーくん学校行くんだよ?少し遅刻してもいいから行ってね?じゃあね」

さきほどと変わらぬ慌てた早口でそう言って、玄関を出て、数秒後、玄関ドアが閉まる音がいつもより大きく聞こえた。

学校には8時10分には着いていないといけなくてこの時点で遅刻は確定した。家と中学校が結構近くて中学生の私調べによると8時に家を出て自転車ずっと立ち漕ぎすればギリギリ間に合う。(田舎の小学校4校が集まったマンモス校なので遠いところから来ている子たちも割と居て、自転車通学が許可されている、みんなほとんどチャリ通)

「少しくらい遅刻してもいいから、はい!着替えて!」

「休みたい」

「遅刻気まずいから嫌かもしれないけど、向かうことに意味があると思うし、まだ朝の会とかあるし、運良かったら朝の会と1時間目の間に行けるかもよ!?」

しかし、そう言っておきながら私が頭に浮かべた光景は弟が全員着席している教室に顔を赤くして入って行って先生にからかわれている光景だった。それを思うと私の学生時代にも似たような経験があって、それがどのくらい恥ずかしいものだったかリアルに思い出した。

なおも抵抗する弟の視線には頑なさが滲んでいた。さっきまで説得していた私だったが正直なところ、弟へ言いかけながらずっとモヤモヤしていたのだった。母が出たということもあり、さっきより素直に弟と話せる空気になっていた。

「うーん…わかんないんだよね、お姉ちゃんも。どうしたらいいのか。お母さんが居たから行かせようって思ってずっとさっきまでまーくんに話してたけど、正直なところ、そんなに学校を休むことが大罪だとは思わないし、疲れたら休むでしょって思う。誰だって疲れたら休んだ方がいいでしょって。お母さんやお父さんが学校を休ませたくない理由は色々あるとは思うけど、苦しくなるくらい行きたくなくてそれでも頑張って行ったとして、でもそれが当たり前だから、頑張って学校行って帰ってきたまーくんを誰も褒めてくれることはないし、そうやってどんどん心をすり減らして行くなら欠席欄の1なんかくれてやる!と思う。今日の休みがあったから登校できた日があればそれでもう今日のことは回収だと思う。お姉ちゃんはまーくんの今日の心を許してあげたいな。疲れたら休もうよって話だよ。」

「うん」

私の話を静かに聴いていた弟だったけど相槌はいつもより細かくて伝えたいことが伝わっているような気がした。

「ただ、まーくんが学校に通えているのはお父さんやお母さんが働いてくれたお金のおかげであって、それを無碍にするようなことはダメだよ。お姉ちゃんがまーくんに間違ってほしくない、危惧してることは今日みたいな有意義な欠席を都合よく使い始めないでほしい。ただ楽をする方に逃げたら意味がないの。そうなっちゃったらダメなの。休むことを慢性化させてしまったら今日のことも全く意味がなくなってしまうの。お姉ちゃんが言いたいことなんとなくわかる?」

「うん」

「じゃあお姉ちゃん、今から学校電話するね」

「うん」

居間にある子機電話を取って電話帳から“チュウガッコウ”の文字を探して決定ボタンを押して“ハッシンシマスカ”の文字が出てきて間もなく“ハッシンチュウ”に変わった。3コールくらいした後に「はい、〇〇〇中学校です。」と40代後半もしくは50代前半のような、いかにも中年教師というかそこそこ偉そうな感じの、もしかしたら教頭先生もありうるって感じの、声色の男性が電話口に出た。

「もしもし、おはようございます、1年4組の〇〇〇〇〇〇〇です。お世話になっております。」

「おはようございます。あー、はいはい、〇〇君。。?」

保護者っぽくない私の声が弟本人だと思われてしまったのかわからないけど、多分お母さんでは無いことが一瞬で向こうに認識されたことは確かで、先生の語尾に少しだけ戸惑いがあった。

「あっ、私は〇〇の姉です。すみません、もう両親とも仕事に出てしまっていて…代わってご連絡させていただいてます…」

間髪入れずに私はそう答えて、訊かれてもいない理由まで答えた。

「あ〜!お姉さん!そうでしたか。ご連絡ありがとうございます。それで、今日はどうされましたか?」

「あっ、実は朝起きた時から吐き気がするみたいで……というか朝ちょっと吐いてしまって…まだちょっと気持ち悪いみたいで…それで今日は病院に連れて行こうかなと思っていて……なのでお休みさせていただきます。」

話しながら返ってくる教師の声や相槌が、なぜか疑っている感じに聞こえた。それで私はつい口から出まかせを言ってしまっていた。

「そうですか、わかりました。えっと、何年何組でしたっけ…」      

私は弟の名前と学年と組を再度電話口の教師に伝え「宜しくお願いします」と言って電話を切った。

電話を切った後に考えていたのは十何分か前に「学校行くんだよ?」と言って出て行った母にどう思われるだろうかということだった。

でも間違ったことをしたという後悔のようなものはどこにもなくてむしろ清々しいに近いような気持ちだった。

「よし!欠席報告完了!」

私はそう言って弟とハイタッチした。

弟がどんな理由で気分悪くなるくらい学校に行きたくなくなっていたのかは私には分からないけど、どんな理由であれ考えただけで泣けてきてしまうくらいなら休んでいいと思う。辛くても休まずに行くのも偉いのかもしれないけど、そこまで強くなってしまうことや強くならざるを得ない環境を作り出してしまうことは、私は我慢の強要をさせてしまっているみたいでそれ自体を手放しで褒めることは出来ないと思う。

私の経験上、我慢をするしかなかった時間が長ければ長いほど善悪の心理システムは逆転していって、我慢をすることで「また今日も耐えていられた」と自分の中に善を見出すようになってしまう。そのシステムを再構築するのには時間がかかる。悪に耐えていることで心を落ち着かせ、善を求めると不安になる。弟にはそうはなってほしくない。だから、どうしようもなく逃げたくなったらいつでも逃げていいのだと、どこにだって行っていいのだと教えてあげたかった。何も一人で抱え込むことはないのだと、人は疲れたら誰でも休んでいいのだと、心を許してあげることの大切さを伝えたかった。

「じゃあ今学期はもう休まないで頑張れそう?」

「多分大丈夫だと思う」

「じゃあそれだけでもう今日のことは回収できたね、朝ごはん一緒に食べよ」

「うん、なんか気持ち悪ささっきより良くなったかも」

「よかったね」

 

弟と夏みかんの缶詰たべた、甘いものは美味しい

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母とのLINE

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