コーヒーは飲めないまま

気づけば今年も残り2日となってしまっていた。

今年、私は何をしただろう。何ができただろう。

そう考えると真っ先にコーヒーが飲めるようになった人のことが頭に浮かんだ。

そして私が今年も唯一、一貫していられたことはあの人への想いを持ち続けていつも携えていたことだと思った。好きなものを好きで居続けることなんか当たり前じゃないかと少し前の私なら言ったかもしれないが当たり前じゃないと今の私は思う。

 

年末らしく、今年一年を振り返るとすれば、私の体の外ではいろんなことが今年も起きていた気がするけど“私自身のこと”という欄にチェックを入れて再検索をかけると「お探しのページが見つかりませんでした。」の文字が浮かんできそうになる。何もなかったと言うつもりはないけどなんかこうパッと浮かんでくることが何一つないことも確かで、数分かかってやっとぼやっとした気持ちで「強いて言うなら病気になったことかな…」と思ったりした。

確かに病気がわかってからは分かりやすく物事が止まって分かりやすく私も苦しんだ。それから第二位に挙げるとしたら家族のことだ。間違いなく今年1番深く傷ついた出来事だった。

 

現在進行形で悪化していくのを肌で感じながら生活していると、楽しかった思い出や生きていてよかった瞬間のことを自ら思い出す気力がだんだんと薄れていってしまって自力で助かることがとても困難なものになっていく。

 

そんな中で最も自分に効く薬として音楽があって、やはり今年も音楽には励まされてばかりだった。こんなことを書いておいて、私が音楽というものを生活の頼りとするようになったのは割と最近のことで。2019年の秋に大きなきっかけがあって私はそこから音楽のライブに多く足を運ぶようになったわけなんだけど「これからいろんな音楽に触れていろんな場所や景色をしっていくぞ!」と息巻いていた私には申し訳ないけど、要因はそれぞれ違うけど、年々私はライブに行く回数が少なくなってしまっている。ごめんなぁ。仕方ないことは仕方ないとしか言いようがない。言葉が見つからない。

 

こんな気持ちで新しい年を迎えてはいけないんだろうな。とは思いつつ、私は私でしかないなあ、とも思う。私のせいじゃないことまで私のせいな気がしてくるけどそんな時は音楽が心強い味方となってくれて、なんとか今年も生きて終えられる。それでもやっぱり自信が無くて怖くて諦めてしまったことも沢山あった1年だった。

 

伝わらない言葉を誰かに伝わると信じて話すのには体力が必要で、今年は涙に流れて使えなかった言葉が本当にたくさんあった。私は辛かった。

 

助けてくれた存在たちへ

出会ってくれて助けてくれてありがとね

愛していますごめんね

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24回目

11月26日で私は24歳になった。

 

特に特別なことをして過ごすこともなく、1日を終えた。

珍しく母が買い物に出向き、私が食べたいと言ったラザニアの材料などにお金を出してくれた。

 

これは私の憶測だが、母は父に秘密がバレてからすっかり信用されなくなり、父が母に頼んでいたことや嫌々母がやっていた父関連の家事や妻の仕事は私が実家に越してきてからは全部私に降りてきた。その中の一つにお金の管理というものがあって今までは父が稼いだお金が入る口座から母が必要なだけ下ろして生活費などに当てていたらしいが母はそのお金を誰だかわからないような男のために使っていた。母の名前で契約された聞き覚えのないアパートの水道代の領収書を父が玄関で拾った時から父は母から通帳からカードから全てを取り上げて自分で管理をするようになった。だが、父は金使いが荒く日銭が多くさらに数字にも機械にも弱く、ATMがやっと使えるような人で、多分自分でもそれを少しは理解していたはずで母に任せていたのだろうけど、自分で稼いだ金が知らない男に流れていると思うと誰だってそうするかもしれない。生活費や諸々の支払いは私が何日か前に父に報告してお金をもらって払っている。そのことで祖母からこうした方がいいとかああした方がいいとか毎日のようにお達しがある。父に口座を取り上げられて以来、安月給の母は目に見えるようにお金を使わなくなった。私や妹が買い物に出掛けていると高確率で連絡が来て「ついでにアレを買ってきて」とついでに“買って来て”を乱用するようになった。高くもないけど安くもない、でも日が経つにつれ明らかに嵩む金額。携帯プランとか電気プランとかのよく機能がわからないようなオプションが付いてて意外と金額くってたみたいな、あのなんか損してる気持ちになるやつだ。母宛のカード会社からのハガキが毎週のように来ていたり、確かに少し前まではカードを使っていたはずなのに父の会社の車の保険の引き落とし先にするために母のカードを貸してもらおうとした際に「もうカードは持ってない」と言っていたことも、また私の知らない新たな氷山の一角だとして認識した出来事だった。とにかく使える金が少ないのだろなということが母を見ていると伝わってくる。

 

その母が夕飯の買い物で5千円以上払った。

たぶん一応、母にとっても私は腐っても娘であって、誕生日は忘れないんだなと思った。

忘れててもあまりびっくりはしないけど、一応、覚えていて祝う気があるんだなと思った。

買い物を終えて家に帰ると私は自分でリクエストしたラザニアを作り始めた。恐らく私が何もせずポーッとしていてもラザニアは食卓に並べられていたとは思うが、そこまでやってもらうことが少し抵抗があってその日も夕飯は私が作った。あと、今思うと「こんなことで信用を少し取り戻したとか間違っても思わないでよね」という気持ちがあったと思う。

妹はケーキを買って来てくれて花束もくれた。

ホールケーキの上の蝋燭を歌の最後に息で消して、クラッカーがなって、カラフルな紙が降ってきて、ホール

ケーキを切り分けて母と妹と弟と私で食べた。そして起きたら花の水を取り替える朝になった。

 

こんな毎日の繰り返しがこれからも続くんだとしたら私はとても寂しいことだと思う。

 

湯船に浸かっているときに、天井からポツポツと落ちてくる雫が腕に連続して落ちたとき、それが何かを問われている声に聴こえたことや

家の隣の竹林が伐採されすっかり更地になってしまった景色に物悲しさを感じながらも私の頭の中の地図のその場所は更地に更新されていて、ただぼんやりと窓の外を眺めるしかなかったこと

私の声は弱いこと

裏切られ続けられること

届かないこと

叶わないこと

出来ること

変わらないこと

変えられること

嘘をつかないこと

嘘じゃなかったこと

24歳になったこと

 

 

言葉になる前の言葉

自分の心を読み取るのにも気持ちの正体を知るのにも時間がかかる私はすぐ自分の言葉にして伝えたり表したりすることが昔からできない。ましてや、その場で感じたことやその瞬間の気持ちをすぐ言葉にして口に出すのなんか苦手を通り越して怖さまである。それ故に私の話す口調はいつも芯がなく、のらりくらりで接続詞と句読点ばっかりで話を最後まで聞けない人続出で、ある人には端的且つできれば結論だけを述べてほしいとよく言われる。

 

昔から話をまとめるのが下手ではあったけど、ここ数年で自分の言葉を発したい欲(必要性)が私の中には発生していて、どちらかと言えば今まではこの世に多く流通している言葉を組み替えて発言したり言葉にしていたりをしていたけど、ある人に出会ってそれは打ち砕かれた。初めて発する言葉を自分の言葉にする必要性や自分の心のままを伝えなければいけない気がした出来事だった。

 

それからというもの私は自分でも驚くくらい“自分の言葉”というものに固執したように思う。というのも、誰かの言葉を借りてきて発言することや何か狭い枠組みの中から言葉を選んでいるように思うことへの違和感が日に日に強くなっていったからだった。ごまんといる同じ言語を話す人の中で例えば「赤色」という言葉でも思い浮かべる色はそれぞれ違っていて、夕焼けを想う人もいれば信号の赤や折り紙の赤を思い浮かべる人もいて、そんな無謀とも思えるようなこの世界で私の言葉の存在など本当にちっぽけで、サハラ砂漠の砂の一粒でしかないと思う。ならばせめて自分の言葉でありたいと思うようになった。どこかの誰かの頭に残らなくても、心に届かなくても、ただ少し引っかかりさえすればいいと思った。なるべく心のままを書いたり発言したりしていたいと思うようになった。感謝を伝えるときでも謝るときでもその時の温度のままを伝えてみたくなった。頻出している語彙は確かに多くの人に伝わりやすいし共有しやすいのかもしれないけど私はそれがちょっぴり虚しく、違和感だった。ひとりひとりに違う心があって性格があってこれまでの経験があって感情の起伏があって正義があって、その中で無数の語彙があって、共通の語句であっても、辞書には載っていない意味やイメージを想起することが当然あるのにどうして、その語句に私は私だけの意味を持っているのにどうして、みんなの辞書で糸も容易く引かれてしまうことが違和感だった。

 

最初はそれこそ掴みどころのない自分の心を読み解いて言葉にすることは難しく、いつもどこかぎこちなく、一文を絞り出すのにもとても時間がかかった。でも読書を取り入れたことでほんとに少しずつ様になってきて、おかげで継続して今もこうして自分の言葉を綴っていられる。

 

ながーい前置きはここまでで、ここ最近、自分の心が特にわからなくなってしまったというか、何から言葉にすればいいのかもわからなくて、心に灰色の靄がかかったかと思えば、それは時に嵐のように身体中を駆け巡って私は窓から椅子を投げたくなる。その靄は常に少しどこか動いていて、次にくる嵐に私は怯えている。その靄を抱えたまま生活をするということに疲れてしまった。人生は疲れるものだけど、疲れてしまった。そして今日も疲れてしまった。うまく言葉にできる自信がないので、言葉になる前の歪な言葉として残せればいいと思って、ながーい前置きを書いた。

 

 

母方の祖母は私のことを思って母以上にいろんなことをしてくれる人で、そのことや祖母の気持ちを私はとてもありがたいものだと思っているし、毎日ほんとに感謝している。もちろん口に出して感謝も伝えている。自分の娘(母)が引き起こしたことであるし問題は自分の娘にあるからと、その罪滅ぼしだとか責任を取らなくちゃいけないとかそういうのじゃなくて、祖母からは「純粋に可愛い孫に可哀想な思いを少しでもさせたくないから」とかそういう温かい思いやりで構成された気持ちをいつも感じる。泣いている時に気にして電話をくれたのもありがたかったし、週に何回か家に来て話を聞いてくれたのもありがたかった。

 

祖母は昔から苦労した人で、その分芯が強くて自分の意見をしっかり持っていて、物怖じしないではっきりものを言う人で、私と似ているようで似ていない部分も多くある。そんな祖母にとって私のはっきりしていない、おぼつかない話し方は我慢できないようで、話が一定の熱量を超えると、よく私の話を遮るように怒涛の勢いで喋り倒すのだった。

 

私の話し方に問題があるのはほんとにそうだけど、話を半分だけ聞いて私の心をわかったように語られるのが少し苦しくもあった。私でさえまだ曖昧な気持ちをまるでそうであるかのように語られるとまだ枝分かれしそうな気持ちも間違っているようにまで思えた。70年生きていて得た知識や経験を踏まえて語っているのだからそりゃ同世代の言葉よりは重く説得力があるし、祖母の話をきくは別に苦ではなかったしむしろタメになっていた。だけど私のその曖昧さを認めて許してほしいという気持ちがあった。同じ人間など1人もいないのだから全てをまるっきり理解できることなどないと思う。それを私はいつだって心に留めていて「理解できないということを理解する」ということはお互いにとって大切なことだと思っている。だけど祖母は大体の人間の心は同じつくりをしていると思っているようで、私の理解できない部分は強く理解できないと言った。それが私には理解することの放棄に思えて悲しかった。でもそんな風に思ってしまう自分も嫌だった。こんなに私のことを想ってくれている人にそんなことを思ってしまう自分が醜いと思うのも事実だった。大きな好意の中にある少しの苦味に文句を垂れる私が情けなかった。だからその度に押し黙った。今日まで一言もそのことに関しては触れずにいた。

 

とにかく泣きながら喋ったり喚いたりしたので事の発端は自分でもはっきりよく覚えてないけど、祖母の話の途中で涙がなぜか止まらなくなってしまった事が始まりの記憶としてある。久々にこんなに大きい声を出して人に意見を言ったので言った後で少し喉がヒリヒリしたのも覚えている。というか事の発端と言うほど何かきっかけがあったのではなくて、多分あの時私が泣き出していなければ、すぐに涙を止める事ができていれば、起きなかったのだろうと12時間経った今になって思う。

 

あの時私は冷静さをまるで失っていた。視界がだんだんとぼやけてきて溢れる涙を頬で感じた。溢れた後に一瞬視界は澄んでまたすぐぼやけた。祖母との喧嘩とも口論とも話し合いとも違うような、私から言わせてみれば、あれは爆発に近かった。

 

 

「もういい…もういい…もう疲れた…」

 

祖母の話を聞きながら泣き出してしまった私は、そう意識より先に口が動いていて、一瞬「しまった」と思った。

すかさず祖母が「何に疲れたのよ」と訊いてきて

私はついうっかり母も居る前で「もう嫌になった、、なんかもう疲れた、もう生きていくのに疲れた、、、」と漏らしてしまっていた。

 

ここまでの記憶は割としっかりあるのだが、ここから先の記憶はだいぶ曖昧ではっきりとは覚えていない。そのくらい、なすすべないままの爆発だった。(実際に怒鳴ったとか暴力を振るったとかのではなくて)私の心の靄が嵐に変わった瞬間だったと思う。

 

祖母の怒涛の語りはなんとか平穏を保とうとしている私の心を時にかき乱すことがあること。私はあなた(祖母)のように強くないこと。あなたを傷つけたくないこと。私の抱える気持ちが曖昧な故にあなたの話す言葉で時に今私が抱えている気持ちが間違ったものに思えてしまうこと。分かり合いたいと思っていること。

もっと細かく書くこともできそうだけど、大体こんなようなことを終始泣きながら話して伝えたと思う。

 

その中で祖母が理解できないと言った私の部分も理解できないなら無理に理解してほしいわけじゃないってことも伝えられたと思うし、でもそれを否定するのは悲しいし突き放された気持ちになると言うことを伝えた。

 

祖母は繰り返し「私の性格では到底理解できない」とか「大体人間は普通こう思うでしょ」とか「なんでそんな風に思うのよ」とかを言っていて、頭が硬いとか許容が足りないとかじゃなくて簡単にそう言われてしまう事が私は悲しかった。あなた(祖母)目の前にいる私はその普通の人間の考えができないから悲しかった。

 

 

「じゃあ私は人間じゃないの!!!?その考えがまともに私は出来ないんだよ!!おばあちゃんが考える人間の心と私の心は違うの!!そしたら私は人間じゃないの!!!?!どうしたらいいの!?!いつも否定されたように聞こえてほんとは苦しかったよ!!でもそんなことを思っちゃう私も嫌だったよ!こんなに私のことを考えてくれている人に!言えなかったよ!!だからずっと押し黙ってたんだよ!!」

 

 

もっといろいろ話した気がするけどまとめるとこんなことを言ったのかもしれない。怒鳴ったんじゃなくてあれは私の心の叫びに近かった。言っている最中も私はどうすればいいのかわからなかった。ただただ、わからなかった。

 

祖母は私の一連の主張を聞いて「私と話して嫌な気持ちになるならもう話すのやめればいいじゃない!!」とこれまでと今後のことを踏まえながら話し始めた。「じゃあ私はこれから一切この家に関わらない!!」とか極端なことを言い出して「だから言いたくなかった…」と強烈な後悔が襲った。私にとって90%有難い人なのにたった10%の苦しみを私が打ち明けてしまったことによってその全てを失うことが私はとてつもなく嫌だった。一生後悔するだろうと思っていた。だからその10%をずっと言わなかった。本当は言うつもりもなかった。とにかく失うのが怖かった。

 

前回のブログにも少し書いたけど、私の人生は言わなきゃ良かったことばっかりだと思った。だから押し黙って生きることが安心だった。もう全部私が悪い気がしてきた。事実、普段静かなのに突然大きい声出したりして困らせたから謝りたくてちゃんと謝った。謝ったら「悪いと思ってないなら謝らなくて良い」って言ってたけど悪いことをしたと素直に思っていたからまたもう一回謝って、どちらの謝罪もふんわり断られた。この時点で泣き出してから1時間半経っていた。

 

 

同じ部屋にいた母はほとんど黙ったままだった。

こんな日にこんな気持ちになりたくなかった。

好きな人の誕生日の前日にこんなブログを書きたくなかった。

自由にすればいいというけど、私にとってはそう簡単なことじゃないです。

自由とは、なんでも好き勝手にできるとか、どんな自分にでもなれるとかじゃないと思う。自由ってそんなに気楽で良いものじゃないなって思う。

生まれ持った性質に方向づけられ、生きる社会の構造に縛られ、それでもなんとかより良く生きようとすることが自由だと私は思っているから。

そういう意味で私は自由になりたい。

 

 

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私が私として存在していられたら

「こんなことになるなら最初から何も言わなきゃよかった」みたいなことばっかりだ。

こんなに疲れるなら私だけの痛みとして誰にも話さなければよかった。

ここでは泣くことさえ気を遣って泣けなくて、今まで夜だけが私の時間だったのに同室の母を気にしながらタオルを口に当てて静かに泣いている。

きっと私はどこへいっても居ない方がいい存在なのだろうとあらゆる物事を通してそう思う。

事故や事件のニュースを見るたびに私がその被害者として死ぬことを頭で想像してしまう。

私の心はいつまでも歪んだままで、それは生まれ育った家庭環境故のものであると本に解かれた。

その本の中には私にそっくりな心理を働く人が何人も載っていて、どの家庭も少しずつではあるが改善されていたから私だってまだ大丈夫なんじゃないかと思った。

私だってまだ大丈夫なんじゃないかって思う気持ちとは裏腹にそんな風には私の家はなれっこないとも思っていたのも事実だった。

どこへいっても取り繕うしかなく、次第に取り繕うのが上手くなった。たまに全てに疲れてしまって辟易としながらも、なんとか平然を保とうとぼーっとしながら返事だけしたりもするが「少し元気がなかった」くらいの印象では誰もこっちを向いてくれないのだった。

今日、国葬に反対していた人が焼身自殺をしたっていうニュースをみていて祖母がそれを揶揄するようなこと言っていたけど全然違う世界の人だとは私は思わなかった。なんなら私の延長線上に居てもおかしくないなって思う。そう私が思ってることは多分家族や友人の誰も想像できないのだろうけど。私は私の中にしかいなくてみんなの中にいる私は取り繕った先の私だから分からなくて当然なんだ。私ですら私のことが毎日わからなくなるから誰にも私のことはわからないまま死ぬんだ。理解してほしいわけじゃなかった。何にせよ、そこに理解が欲しいわけじゃなかった。

ただ黙って最後まで私の話を聴いてくれる人がいてくれたら私は取り繕うのを休めたのかもしれない。そう今は思う。

残忍な事件とか可哀想でならない事故とかに遭って死んで世間から家族が可哀想な扱いを受けて私の死を弔う人もたくさん居て家族がたくさんお金もらって最初の何年間かずっと私の死を本当に悲しんでくれて悔やんでくれたらもうそれでいいよ。

それくらい疲れた。好きな人いるから本当は死にたくない。

 

 

 

僕らは若くて美しい

11日に下北沢で好きな人のライブを観たあとに久々に私の一個下の妹に会えて、妹2人と私で一緒にご飯を食べた。

私に妹は2人いて、上が22歳で下が21歳。(11個下に弟)※ここでは1か下の方は2

驚かれることが多いけど年子3人で、物心ついた時から父と母は喧嘩ばかりしていたので、私たちの結束は自然と強まっていった。多分、まぁまぁ仲は良い方だと思う。

一個下の妹は下北沢で働いていて、いま実家で一緒に住んでいるのが2個下の妹で、共通して2人ともおもしろい。そして優しい。

いつ会っても中身は変わっていなくてホッとする。4人兄弟の中で1番明るい。いいギャルって感じ。結構スパッとキレることあるし私がイカついなって思う人とかにも臆することない感じで、肝座ってるなって個人的には思う。私は私でなんでもかんでも怖がりすぎなのだけど。

私はライブ後の全能感を引きずるようにして妹たちと合流した。下北のガスト。

わたしたちは各々積もる話が沢山あったはずだけど、やはり話題の中心になっていたのはずっと母のことだった。実家に暮らしていないと分からないことや今日まであった出来事を話した。

 

ここまで書いて寝てしまってたのでもうこれでいい。

 

腐っても親だからと思う気持ちと拒絶する心とどう付き合っていくか。

 

相変わらず3人でいると楽しい。

 

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欠席連絡

朝7時半過ぎに母に名前を呼ばれて目が覚めた。

「なに、」

「まーくんが気持ち悪いから今日は休むって言うんだけど。ちなみにこうへい君も今日はお休みなんだって。どう思う?」

こうへい君とは、弟がいつも一緒に登下校をしている近所の同級生の仲のいい男の子で、小学生の頃から仲が良く、中学でクラスは離れてしまったものの同じ帰宅部で登下校の時間が一緒だったため毎日顔を合わせ話をする彼らの日常に大きな変化はなかった。

目を擦りながら階段を降りて居間へ行くと、そこにはビニール袋を片手に背中を少し丸めて俯いて座っている弟がいた。

「どうしたの?」

「気持ち悪い」

「どこがどういうふうに?吐きそうなの?」

「ここらへんが気持ち悪い」

弟はそう言うとみぞおちのあたりに手を当てて私に教えた。

「うーん…」

私は少し考えた後に、あることを思い出してキッチンの方へ向かった。思い出したそれは私が引っ越しの時に持ってきた薬箱の存在だった。

「まーくん!お姉ちゃんそう言う時にぴったりな薬持ってるよ!お姉ちゃんもひとりで暮らしてたとき、仕事に行きたくなさすぎて憂鬱でお腹が毎日気持ち悪くて。でも仕事は行かなくちゃいけないでしょ?だから毎日これ飲んで行ってたんだよ。これ飲んで学校行ってそれでも治らなかったら帰っておいでよ?ね?」

私は薬箱から胃痛薬を3錠取り出して弟に差し出した。時計を見ると7時39分。いつもなら家を出ていてもおかしくない時間だった。薬を飲んで今から準備すればまだ間に合う。最低8時までには出したい。弟に薬を渡して、またキッチンの方へ向かい、水の入ったコップを持ってきて「少し独特な味がするけど少しは効くから飲んでみて」と弟にコップを差し出した。

錠剤の匂いを嗅いでしばらく怪訝な顔を浮かべた弟だったが、口の中に3錠一気に入れてすぐに水を含み一回で飲み込んだ。思ったより減らなかったコップの中の水に一度視線をやり「結構1錠デカいのに一気に飲めるんだ、すご、私もそうだけど、君もそうだったのね」と言って褒めてるんだかバカにしてるんだか自分でもよくわからないことを言っていた。

「歯磨いた?」

私がそう訊くと弟は息を私に向かってフーっと吐いてみせた。なぜか弟は息を私に吐いてくることが多くて、と言うか弟は普段から自分の息をかけて相手を嫌がらせてふざけることが多くってまたこれもその悪ふざけの類だった。弟に限らず人間の朝イチの口臭が臭くないわけない。歯磨き粉のミント感は皆無、私は少し大袈裟に分かりやすく嫌がってみせた。

「うわっ、、、まずは磨いて」

「気持ち悪いから無理…」

この感じだと埒が開かないことがこのやり取りだけで分かった。

「じゃあ私が歯ブラシに歯磨き粉つけて持ってきてあげる」

そう言って起き抜けに降りた時の倍の速さで私は階段を登り2階の洗面台にある弟の歯ブラシに歯磨き粉を塗ってまた倍の速さで階段を降りて素早く歯磨き粉のついた歯ブラシを弟に渡した。

弟は黙ってそれを受け取って歯を磨き始めた。

恐らく母がつけたであろう、観ているのか観ていないのか分からないテレビの中では丁度目覚ましテレビからめざまし8にかわる前のスタジオとスタジオとの中継のやりとりの真っ最中で、そのことからもうすぐ8時になることを自覚した。現実から逃げるように私は近くにあったリモコンを押してテレビを消した。

「まーくん!はやくはやく!ほら、準備して!もしあれだったらママ送って行ってあげるから!」

化粧中の母が脇目で弟をチラッとみた後、また鏡に視線を戻して少し焦っているような早口な口調で言った。

「だって!よかったね、じゃあ早く頑張って準備しよう!歯磨きもうそれでいいよ、早くうがいしてきて、がんばって!」

弟は無言のままで引き続き不服そうな顔のまま、ゆっくりとまた2階へ上がってうがいをしてまたゆっくりと降りてきた。

「はい!着替えて!!」

私が制服を差し出しても弟は依然として無言と不動を貫いていて、嫌そうに私を見つめる目をよく見ると少しまつ毛が濡れていて、メガネ越しの目も微かに潤んでいるように見えた。

「休みたい」

「休みたいのはよくわかるんだけど、学校は行かなくちゃ、学校と同じことはさ、お家にいたら出来ないじゃん?私もまーくんくらいの時はなんでそんなに行かなくちゃ行けないのかわかんなかったけど、あそこでしか学べないことが沢山あるんだって。」

時計は8時5分を差しており、それはいつも母が家を出ている時刻だった。

「学校に連絡しといてくれる?」

「あーうん、わかった」

「じゃあ、宜しく。まーくん学校行くんだよ?少し遅刻してもいいから行ってね?じゃあね」

さきほどと変わらぬ慌てた早口でそう言って、玄関を出て、数秒後、玄関ドアが閉まる音がいつもより大きく聞こえた。

学校には8時10分には着いていないといけなくてこの時点で遅刻は確定した。家と中学校が結構近くて中学生の私調べによると8時に家を出て自転車ずっと立ち漕ぎすればギリギリ間に合う。(田舎の小学校4校が集まったマンモス校なので遠いところから来ている子たちも割と居て、自転車通学が許可されている、みんなほとんどチャリ通)

「少しくらい遅刻してもいいから、はい!着替えて!」

「休みたい」

「遅刻気まずいから嫌かもしれないけど、向かうことに意味があると思うし、まだ朝の会とかあるし、運良かったら朝の会と1時間目の間に行けるかもよ!?」

しかし、そう言っておきながら私が頭に浮かべた光景は弟が全員着席している教室に顔を赤くして入って行って先生にからかわれている光景だった。それを思うと私の学生時代にも似たような経験があって、それがどのくらい恥ずかしいものだったかリアルに思い出した。

なおも抵抗する弟の視線には頑なさが滲んでいた。さっきまで説得していた私だったが正直なところ、弟へ言いかけながらずっとモヤモヤしていたのだった。母が出たということもあり、さっきより素直に弟と話せる空気になっていた。

「うーん…わかんないんだよね、お姉ちゃんも。どうしたらいいのか。お母さんが居たから行かせようって思ってずっとさっきまでまーくんに話してたけど、正直なところ、そんなに学校を休むことが大罪だとは思わないし、疲れたら休むでしょって思う。誰だって疲れたら休んだ方がいいでしょって。お母さんやお父さんが学校を休ませたくない理由は色々あるとは思うけど、苦しくなるくらい行きたくなくてそれでも頑張って行ったとして、でもそれが当たり前だから、頑張って学校行って帰ってきたまーくんを誰も褒めてくれることはないし、そうやってどんどん心をすり減らして行くなら欠席欄の1なんかくれてやる!と思う。今日の休みがあったから登校できた日があればそれでもう今日のことは回収だと思う。お姉ちゃんはまーくんの今日の心を許してあげたいな。疲れたら休もうよって話だよ。」

「うん」

私の話を静かに聴いていた弟だったけど相槌はいつもより細かくて伝えたいことが伝わっているような気がした。

「ただ、まーくんが学校に通えているのはお父さんやお母さんが働いてくれたお金のおかげであって、それを無碍にするようなことはダメだよ。お姉ちゃんがまーくんに間違ってほしくない、危惧してることは今日みたいな有意義な欠席を都合よく使い始めないでほしい。ただ楽をする方に逃げたら意味がないの。そうなっちゃったらダメなの。休むことを慢性化させてしまったら今日のことも全く意味がなくなってしまうの。お姉ちゃんが言いたいことなんとなくわかる?」

「うん」

「じゃあお姉ちゃん、今から学校電話するね」

「うん」

居間にある子機電話を取って電話帳から“チュウガッコウ”の文字を探して決定ボタンを押して“ハッシンシマスカ”の文字が出てきて間もなく“ハッシンチュウ”に変わった。3コールくらいした後に「はい、〇〇〇中学校です。」と40代後半もしくは50代前半のような、いかにも中年教師というかそこそこ偉そうな感じの、もしかしたら教頭先生もありうるって感じの、声色の男性が電話口に出た。

「もしもし、おはようございます、1年4組の〇〇〇〇〇〇〇です。お世話になっております。」

「おはようございます。あー、はいはい、〇〇君。。?」

保護者っぽくない私の声が弟本人だと思われてしまったのかわからないけど、多分お母さんでは無いことが一瞬で向こうに認識されたことは確かで、先生の語尾に少しだけ戸惑いがあった。

「あっ、私は〇〇の姉です。すみません、もう両親とも仕事に出てしまっていて…代わってご連絡させていただいてます…」

間髪入れずに私はそう答えて、訊かれてもいない理由まで答えた。

「あ〜!お姉さん!そうでしたか。ご連絡ありがとうございます。それで、今日はどうされましたか?」

「あっ、実は朝起きた時から吐き気がするみたいで……というか朝ちょっと吐いてしまって…まだちょっと気持ち悪いみたいで…それで今日は病院に連れて行こうかなと思っていて……なのでお休みさせていただきます。」

話しながら返ってくる教師の声や相槌が、なぜか疑っている感じに聞こえた。それで私はつい口から出まかせを言ってしまっていた。

「そうですか、わかりました。えっと、何年何組でしたっけ…」      

私は弟の名前と学年と組を再度電話口の教師に伝え「宜しくお願いします」と言って電話を切った。

電話を切った後に考えていたのは十何分か前に「学校行くんだよ?」と言って出て行った母にどう思われるだろうかということだった。

でも間違ったことをしたという後悔のようなものはどこにもなくてむしろ清々しいに近いような気持ちだった。

「よし!欠席報告完了!」

私はそう言って弟とハイタッチした。

弟がどんな理由で気分悪くなるくらい学校に行きたくなくなっていたのかは私には分からないけど、どんな理由であれ考えただけで泣けてきてしまうくらいなら休んでいいと思う。辛くても休まずに行くのも偉いのかもしれないけど、そこまで強くなってしまうことや強くならざるを得ない環境を作り出してしまうことは、私は我慢の強要をさせてしまっているみたいでそれ自体を手放しで褒めることは出来ないと思う。

私の経験上、我慢をするしかなかった時間が長ければ長いほど善悪の心理システムは逆転していって、我慢をすることで「また今日も耐えていられた」と自分の中に善を見出すようになってしまう。そのシステムを再構築するのには時間がかかる。悪に耐えていることで心を落ち着かせ、善を求めると不安になる。弟にはそうはなってほしくない。だから、どうしようもなく逃げたくなったらいつでも逃げていいのだと、どこにだって行っていいのだと教えてあげたかった。何も一人で抱え込むことはないのだと、人は疲れたら誰でも休んでいいのだと、心を許してあげることの大切さを伝えたかった。

「じゃあ今学期はもう休まないで頑張れそう?」

「多分大丈夫だと思う」

「じゃあそれだけでもう今日のことは回収できたね、朝ごはん一緒に食べよ」

「うん、なんか気持ち悪ささっきより良くなったかも」

「よかったね」

 

弟と夏みかんの缶詰たべた、甘いものは美味しい

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母とのLINE

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持続可能な心へ

家族のことを語る時に語りが被害者づらになってしまっていないかとか、責任を押し付けてしまってないかとか、1人を責めた物言いになってしまってないかいつも気になる。気にしてる。

 

実家を出た18歳の頃には感じられなかった、読み取れなかった心が今の私には感じられて読み取れる心も増えたと思う。

 

私は上京して少し経った頃にある出会いをして、その後の私の感受性や在り方に変化やきっかけをもたらしてくれた存在、音楽に出会ってその存在のおかげでそれまでの人生では考えられなかったようなことや、感じられなかったことを思えるようになった。

 

やらなくちゃいけないことばかりで落ち込んでる暇はないのに、ぬかるんだ毎日に足を取られて助けも呼べず微かな私の声は聞こえず蝉の声にかき消されてしまう。

 

今やるべきこと、やれることをやるんだ。という気持ちを常に持ってはいるものの、辛い過去や今ある不安に心臓の1番弱いところをずっと握られているような感覚で、暮らしのあちこちにその記憶は転がっていて些細なことが引き金となってあっという間に心に雨雲がかかって、その度にこの呪縛からは逃れられないんだろうなと思う。

 

そのうちの一つに母の事がある。多分もう私達は普通の親子のような信頼関係を築くことはできなくて、どうなっても猜疑心や不信感は拭えないのだと実感する。頭ではそう努めようと思っても心が拒絶するのだ。無理なんだなって思う。私ってもしかしてお母さんのことが嫌いなの?って思ってしまうほど。でも母親という存在は子供にとって切り離せない見えない糸のようなもので繋がっていて、嫌いになれるはずもなく、母の事を信じられない自分にもまたショックを受けたりする。とにかく苦しくなって、どうにもならなさと遣る瀬無さでもうわかったので自分爆発しないかなって思ったりもする。ほんとに些細なことでも魚の小骨が喉に引っかかった時みたいに大きさに伴わない嫌悪感が体中を支配して暴れて静かに確かに蓄積されていく。そう感じてるのはきっと私だけじゃなくて。

 

妹とはよく母のことについて話す。母に対してこう思ってしまったとか思うことをお互い話す。先週の土曜日は「コンタクトを買いに行ってくる」と往復50分もあれば余裕で帰ってこれる外出を3時間半後くらいに帰って来た。私はもう母が一人で出掛けたとなったら家でずっと心がザワザワするようになってしまった。無意識に時間を何回も確認したり、家を出て何時間経ったとかどんな服を着ていったっけとか。買い物を頼みたくても、もし違う人が出たらどうしようとか考えてしまって怖くて電話すらかけられなくなってしまった。そういうことを無意識のうちに考えてしまっている。その度にでもこれが今の私の素直なそのままの本心なのだろうと思う。ほんとに信じられなくなってしまったんだなと。弟の前で涙を堪えるのに必死でうまく笑えなかった。私が歩み寄った分だけ母が遠ざかるような、母の抱えるものを解ろうとしてやっていることが全て裏目に出ているような気がしてならない。実家に帰って来てから家事全般を私がやるようになった1番の理由は父や妹や弟のためで、家族に今ある取り除ける不自由はなるべく私が無くしてあげたかった。その中で母に何か少しでも感じてほしいと思っていた。まだ時間はかかるかもしれないけどゆっくりでも何か母の中で少しづつ変化するものがあれば良いなと思っていた。今も思っている。だけどここのところ母はより一層何もしなくなってしまった。放棄したとも取れるような生活ぶりで、それでいてリビングで堂々としていられて、まるで自分がやったことを覚えていないような振る舞いでますます母の考えている事がわからなくなった。その軽快なジョークも以前のように笑えなくなったし、何気ない相槌一つにも心はどんよりする。昔から母は外見だけはよく見せるのが上手くて、実際周りも母に好感を持っている人は多かった。母が私の友人のお母さんや学校の先生と喋っているのを見たりしてほんとに外面はいいなとずっと思っていた。なんか少しずつそれも不気味に思えるようになってしまった。裏と表をこんなにはっきり見せつけられると何も言うことが無くなってしまう。言いたいことがないわけないけど呆れてものも言えないってこういうことなのかと思う。キッチンで夕飯の準備をしていたときに足りないものが出てきてそれの買い出しを母に頼んでもはぐらかしてなかなか動き出す気配がなくてキッチンとリビングで行き交う一向に進まない会話をリビングでiPhoneを触りながら聴いていた妹が少し呆れたような声色で「なんで行かないの?」と妹が母の方を向いて放った。「ダルい」と当たり前に返ってきて少し間が空いた後に「それなら私が行ってくるからママは行かなくて良いよ、お姉ちゃん何買ってくればいい?」って。私はキャベツを切りながら聴いていた短いやりとりだったけど、その時妹はなにかを悟ったんだと思う。諦めたんだと思った。私たちは同じだった。そうやって食い下がることがどんな意味をもたらすとかそんなことはもう後になってくるのだ。自分の心を保つためにも諦めるしかないように思えてくるのだ。この小さな諦めの極地にあるのは無関心だと思う。

 

8月31日。夏休み最終日、23時、母がリビングでテレビもつけっぱなしで風呂も入らず眠る中、私と弟は夏休みの宿題を終わらせた。弟は生まれて初めて夏休みの宿題を終わらせたという。よかった。「終わった〜…」と言いながらあくびをする弟の顔には少しの疲労感に混ざってどこか満足げな目をしていて何かがこの子には伝わった気がして嬉しかった。偉かったね、がんばったね。

 

今読んでいる本

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