私が私として存在していられたら

「こんなことになるなら最初から何も言わなきゃよかった」みたいなことばっかりだ。

こんなに疲れるなら私だけの痛みとして誰にも話さなければよかった。

ここでは泣くことさえ気を遣って泣けなくて、今まで夜だけが私の時間だったのに同室の母を気にしながらタオルを口に当てて静かに泣いている。

きっと私はどこへいっても居ない方がいい存在なのだろうとあらゆる物事を通してそう思う。

事故や事件のニュースを見るたびに私がその被害者として死ぬことを頭で想像してしまう。

私の心はいつまでも歪んだままで、それは生まれ育った家庭環境故のものであると本に解かれた。

その本の中には私にそっくりな心理を働く人が何人も載っていて、どの家庭も少しずつではあるが改善されていたから私だってまだ大丈夫なんじゃないかと思った。

私だってまだ大丈夫なんじゃないかって思う気持ちとは裏腹にそんな風には私の家はなれっこないとも思っていたのも事実だった。

どこへいっても取り繕うしかなく、次第に取り繕うのが上手くなった。たまに全てに疲れてしまって辟易としながらも、なんとか平然を保とうとぼーっとしながら返事だけしたりもするが「少し元気がなかった」くらいの印象では誰もこっちを向いてくれないのだった。

今日、国葬に反対していた人が焼身自殺をしたっていうニュースをみていて祖母がそれを揶揄するようなこと言っていたけど全然違う世界の人だとは私は思わなかった。なんなら私の延長線上に居てもおかしくないなって思う。そう私が思ってることは多分家族や友人の誰も想像できないのだろうけど。私は私の中にしかいなくてみんなの中にいる私は取り繕った先の私だから分からなくて当然なんだ。私ですら私のことが毎日わからなくなるから誰にも私のことはわからないまま死ぬんだ。理解してほしいわけじゃなかった。何にせよ、そこに理解が欲しいわけじゃなかった。

ただ黙って最後まで私の話を聴いてくれる人がいてくれたら私は取り繕うのを休めたのかもしれない。そう今は思う。

残忍な事件とか可哀想でならない事故とかに遭って死んで世間から家族が可哀想な扱いを受けて私の死を弔う人もたくさん居て家族がたくさんお金もらって最初の何年間かずっと私の死を本当に悲しんでくれて悔やんでくれたらもうそれでいいよ。

それくらい疲れた。好きな人いるから本当は死にたくない。