6周年おめでとう

ベンチで動けなくなった。

住んでいた部屋の明け渡しを不動産屋にすっぽかされて電話したところ、挙げ句その必要はないと実にあっさり言われてしまいあまりの自分の振り回されっぷりに電話口で何も喋れなくなってしまった。

「今日このために私遠いところから来てて………」

「さようでございましたか…本当に申し訳ありません……」

平謝りする女性の声に混ざって「でもこれ私のミスじゃないのにな…」という発されていない声が聞こえたような気がしてもうそれ以上言葉が出て出てこなかった。

そんな状況でも私は「私がもっとしっかり確認の連絡入れていたら良かったらよかったんですけど……」なんて口走って出ていて自分で言っておきながら少し悔しくなった。

昔から怒りがすぐに悲しみに変わってしまう。

信頼していた友人に裏切られた時も何度も詐欺にあった時も無茶苦茶な理由でボコボコにされていた時も「どうしてそんなことするの…」と思いながらも同時にこうなってしまった全ての元凶は私にあるとも思っていた。自分の振る舞いや態度や行いにほんとうに自信がない。

授業でそれが正解の答えだと知っていてもやっぱりどこか自信が無くて答える口調は恐る恐るだった。

 

 

電話を切った後、駅ビル内のベンチに座り込んで、向かいの壁をただじっと見ていた。こうやって私はいろんなものを諦めていくのだろうか。私は一体何がしたいんだろう。そうしている間に向かいのベンチに座っている人が3回変わって3番目に座ったサラリーマンも電話をしながらどこかへ消えた。隣のベンチのおばあちゃんとふたりきり取り残された。

 

 

11時になってレストラン街のオープン時間になったことを知らせるチャイムが駅ビル内に響いた。家を出て4時間。何もしてない。それなりに駅ビルも賑わってきていた。せめて何かしようと思ってフラフラと駅ビル内を歩いてユニクロで弟の服を買った。「黒のズボンが良い!」って言って毎回決まった半ズボンばかりを履いて、他のズボンはあるのにいつも同じズボンを履こうとしてそのズボンを洗濯している時にそのズボンを探していて、その様子を見た祖母に「服もまともに洗ってあげていないの?」と言われてしまったので。

 

ここに居るより家でひとりで居る弟のところへ帰るべきだと思ったりした。どうせ私もひとりだし。できることなら5秒で帰宅したい。12時を回ると妹からLINEが来た。

「今仕事終わったーこれから帰るー」

妹は今日アイナちゃんのミュージカルを観に行く予定だった。当初は一緒に行く約束だったのだがいろいろ考えた末にチケットを手放したのだった。妹に今朝あったことを話すとチケット探して今日のミュージカル一緒に観に行こうと誘ってくれた。明日も朝早くから病院に行かなくては行けなかったので夜遅くなるのがネックだったけどこのままマイナスの日のまま終わりたくないと思った。それに今渋谷で好きな人の展示みたいなのをやっていて諦めていたけどずっと行きたかったし今この悲しいのを慰めてくれるのは好きな人しか居ないと思ったし単純に会いたかった。別に行っても会えるわけじゃないんだけど。好きな人の何%かはそこにあると思ったから。その何%かに会いに行きたかった。

 

妹がチケットを探してくれて私の分を取ってくれて、妹はその前に美容室があったから18時に会場で落ち合うことになった。私はその前に好きな人の展示に行くことにした。渋谷に向かう電車の中で好きな人のことを考えていたら涙が出てきてしまった。いまオーディブルで聴いている川上未映子さんの『春のこわいもの』という本の中で好きな人に手紙を書いている入院中の女の子の話があって書き出しの“君にこうしてなにかを書くのは随分久しぶりなことで、でも考えてみると文章を書くこと自体がとても久しぶりのことで、どんな風に書けば良いのか少し緊張しています。”のところがこの前私が好きな人に宛てて書いた手紙の書き出しと似ていてそれを皮切りにその女の子が言ってること全部が私の気持ちと当てはまっていて、分かるなあと思った。それに岸井ゆきのさんの朗読がとても良い。朗読を聴いていると自然と頭に好きな人の顔が浮かんで話の中に“君”と出てくるたびに私も心で好きな人のことを呼んでしまっていた。好きな人というのはその人のこと考えるだけで説明のできない涙が出てきてしまう。喉の奥がキューッと少し苦しくなる。好きという感情はいつまでも不思議な気持ちだ。自分ですらその全貌が見えない。坊主憎けりゃ袈裟まで憎いの逆。私が好きな人に対して使う“かわいい”は顔立ちがかわいいとか声が可愛いとか仕草が可愛いとかそういう理屈で説明できるものじゃなくて、どうしようもない愛おしさからくるものだと思う。

 

すこし前にアユニちゃんはBiSH加入6周年を迎えた。その日は自分のことと家のことで手一杯でツイートをできなかった。ちょっと後悔。夜遅くにツイッターを開くとハッシュタグを付けてみんなお祝いをしてて# 祝アユニ6周年と付いたツイートがタイムラインのほとんどを埋めていた。またちょっと後悔。でも140字じゃ足りないもんな。少し出遅れてしまったけどこのまま綴らないのは嫌なのでここに書いてみる。本人に届かないのにここに書く意味。わたしずっとこういうことしてしまうな。

 

アユニちゃん6周年おめでとう。

毎回言ってしまうけど今日までBiSHでいてくれてアユニ・Dでいてくれて本当にありがとう。

あなたが今日まで過ごした時間はどれも当たり前じゃないなって思ってるよ。同じ世界に同じ時代に生まれてこれたことも、広い世界の中でたったひとりのあなたを見つけられたことやあなたの音楽に触れることができたこと、どれもが小さな奇跡の連続なんだって思う。私の人生が終わった後に私の生涯を絵本にするとしたら間違いなくあなたは出てくるなって思います。私の絵本の中でいちばんかわいいひと。私にとってあなたは特別なひとです。その幸せのどれもがあなたがBiSHになってくれたからある幸せで、BiSHになろうと決めた時のあなたにもあたたかく送り出してくれたあなたのご家族にもBiSHを作ってくれた方々にもずっと感謝だなって思います。そして今日もこうしてBiSHのアユニ・Dとして生きていてくれてありがとう。今日まで歌を歌い続けてくれてありがとう。私が想像するのも失礼なくらい、あなたの生活は目まぐるしくて時間の進み方もまるで違うんだろうなと思います。私なんかには考えられないような難しいことや辛いことがあなたの周りではたくさん起こってたんじゃないかな。それは今現在もそうだと思う。でもあなたは今日も歌っててBiSHとしてステージに立ってくれている。私はいつもあなたがステージに現れるだけで泣いてしまうんです。それだけ私にとっては当たり前じゃないんです。ステージにあなたがいてそこに私が居合わせられるということは私にとってはありふれたことじゃないです。人生の中でも特に大切なことです。お互い生きてまた会えるということ。暮らしの中にこれがなければ私は私でいられなくなってしまう気がします。特にPEDROは私の血液みたいなもので、多分おばあちゃんになってもずっとPEDROは私の血液になってくれていると思います。孫ができたらおばあちゃんの青春だったと自慢したい。あなたの歌を聴くということは自分自身を見つめる、理解する行為だなって思うんです。普段は自分の気持ちがよくわからなくて自分という生き物は何なんだっていう感じで、とにかく空っぽで自信が無くて自分自身に振り回されてばかりで。だけどPEDROのライブに行ってあなたの歌声に包まれるとそんな自分をなぜか許してあげたくなるんです。わかってあげたくなる。愛しく思えるんです。とにかくこれは私の救いで、手放せないもので、こんな世界にもこんな場所があるんだって。私は“ここに居たい”と思える場所があったことにすごく助けられたんです。なぜか私はあなたの歌に認められた気がして日の当たらないところに日が当たったような気持ちでした。それで私は許されたかったんだなって。自分を許したかったんだなって気づいて。そうやって自分のことを知っていくことは直感的に今の私に必要だったんだなと思いました。同時に自分が今まで素直な感情に蓋をしていたこと、上手く渡れるように自分自身に嘘をつくことがそこそこ上手くなってしまっていることを初めて自覚した時でした。あなたを見ていると私も私らしくありたいと思うんです。私らしくあることは何も間違いじゃなくてかっこいいことだったんだなって。そうやってあなたは私にいろんな私を教えてくれました。あなたといる時の私が好きです。世界を教えてくれてありがとう。いろんなところに連れて行ってくれてありがとう。ほんとは私だって抱きしめたい。抱きしめる。てか抱きしめている。かっこいいところも見せたい。追いつきたい。優しくなりたい。ひとつもこぼさす優しさをあなたに届けたい。包んであげたい。一緒に笑いたい。あなたと一緒に幸せでいたい。愛してます。

いつもありがとう。アユニちゃんだいすきです。これからも見守ってるよ。今日も生きていてくれてありがとう。光です。

 

 

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