持続可能な心へ

家族のことを語る時に語りが被害者づらになってしまっていないかとか、責任を押し付けてしまってないかとか、1人を責めた物言いになってしまってないかいつも気になる。気にしてる。

 

実家を出た18歳の頃には感じられなかった、読み取れなかった心が今の私には感じられて読み取れる心も増えたと思う。

 

私は上京して少し経った頃にある出会いをして、その後の私の感受性や在り方に変化やきっかけをもたらしてくれた存在、音楽に出会ってその存在のおかげでそれまでの人生では考えられなかったようなことや、感じられなかったことを思えるようになった。

 

やらなくちゃいけないことばかりで落ち込んでる暇はないのに、ぬかるんだ毎日に足を取られて助けも呼べず微かな私の声は聞こえず蝉の声にかき消されてしまう。

 

今やるべきこと、やれることをやるんだ。という気持ちを常に持ってはいるものの、辛い過去や今ある不安に心臓の1番弱いところをずっと握られているような感覚で、暮らしのあちこちにその記憶は転がっていて些細なことが引き金となってあっという間に心に雨雲がかかって、その度にこの呪縛からは逃れられないんだろうなと思う。

 

そのうちの一つに母の事がある。多分もう私達は普通の親子のような信頼関係を築くことはできなくて、どうなっても猜疑心や不信感は拭えないのだと実感する。頭ではそう努めようと思っても心が拒絶するのだ。無理なんだなって思う。私ってもしかしてお母さんのことが嫌いなの?って思ってしまうほど。でも母親という存在は子供にとって切り離せない見えない糸のようなもので繋がっていて、嫌いになれるはずもなく、母の事を信じられない自分にもまたショックを受けたりする。とにかく苦しくなって、どうにもならなさと遣る瀬無さでもうわかったので自分爆発しないかなって思ったりもする。ほんとに些細なことでも魚の小骨が喉に引っかかった時みたいに大きさに伴わない嫌悪感が体中を支配して暴れて静かに確かに蓄積されていく。そう感じてるのはきっと私だけじゃなくて。

 

妹とはよく母のことについて話す。母に対してこう思ってしまったとか思うことをお互い話す。先週の土曜日は「コンタクトを買いに行ってくる」と往復50分もあれば余裕で帰ってこれる外出を3時間半後くらいに帰って来た。私はもう母が一人で出掛けたとなったら家でずっと心がザワザワするようになってしまった。無意識に時間を何回も確認したり、家を出て何時間経ったとかどんな服を着ていったっけとか。買い物を頼みたくても、もし違う人が出たらどうしようとか考えてしまって怖くて電話すらかけられなくなってしまった。そういうことを無意識のうちに考えてしまっている。その度にでもこれが今の私の素直なそのままの本心なのだろうと思う。ほんとに信じられなくなってしまったんだなと。弟の前で涙を堪えるのに必死でうまく笑えなかった。私が歩み寄った分だけ母が遠ざかるような、母の抱えるものを解ろうとしてやっていることが全て裏目に出ているような気がしてならない。実家に帰って来てから家事全般を私がやるようになった1番の理由は父や妹や弟のためで、家族に今ある取り除ける不自由はなるべく私が無くしてあげたかった。その中で母に何か少しでも感じてほしいと思っていた。まだ時間はかかるかもしれないけどゆっくりでも何か母の中で少しづつ変化するものがあれば良いなと思っていた。今も思っている。だけどここのところ母はより一層何もしなくなってしまった。放棄したとも取れるような生活ぶりで、それでいてリビングで堂々としていられて、まるで自分がやったことを覚えていないような振る舞いでますます母の考えている事がわからなくなった。その軽快なジョークも以前のように笑えなくなったし、何気ない相槌一つにも心はどんよりする。昔から母は外見だけはよく見せるのが上手くて、実際周りも母に好感を持っている人は多かった。母が私の友人のお母さんや学校の先生と喋っているのを見たりしてほんとに外面はいいなとずっと思っていた。なんか少しずつそれも不気味に思えるようになってしまった。裏と表をこんなにはっきり見せつけられると何も言うことが無くなってしまう。言いたいことがないわけないけど呆れてものも言えないってこういうことなのかと思う。キッチンで夕飯の準備をしていたときに足りないものが出てきてそれの買い出しを母に頼んでもはぐらかしてなかなか動き出す気配がなくてキッチンとリビングで行き交う一向に進まない会話をリビングでiPhoneを触りながら聴いていた妹が少し呆れたような声色で「なんで行かないの?」と妹が母の方を向いて放った。「ダルい」と当たり前に返ってきて少し間が空いた後に「それなら私が行ってくるからママは行かなくて良いよ、お姉ちゃん何買ってくればいい?」って。私はキャベツを切りながら聴いていた短いやりとりだったけど、その時妹はなにかを悟ったんだと思う。諦めたんだと思った。私たちは同じだった。そうやって食い下がることがどんな意味をもたらすとかそんなことはもう後になってくるのだ。自分の心を保つためにも諦めるしかないように思えてくるのだ。この小さな諦めの極地にあるのは無関心だと思う。

 

8月31日。夏休み最終日、23時、母がリビングでテレビもつけっぱなしで風呂も入らず眠る中、私と弟は夏休みの宿題を終わらせた。弟は生まれて初めて夏休みの宿題を終わらせたという。よかった。「終わった〜…」と言いながらあくびをする弟の顔には少しの疲労感に混ざってどこか満足げな目をしていて何かがこの子には伝わった気がして嬉しかった。偉かったね、がんばったね。

 

今読んでいる本

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