夕食の味を覚えていない

今日は仕事だった。amazonで頼んでいた雑誌が届いた。間違って同じ物を2冊買ってしまっていた。好きなアーティストの雑誌だから2冊くらい頼んでしまっていてもなんとも思わなかった。注文する時の私は頼めてなかったら困るからと焦ってしまっていたんだろう。今日もひとしきり泣いた。さっきまで泣いていて、妹に話したいことがあったので妹と電話をした。妹はやっぱり面白くて久々に笑ったりしたら笑ってる時の息の仕方が思い出せなくて喉から変な音が出た。妹とはこんなに気さくにひょうきんに話せるのにな。暗い話をする時は暗いけど。妹はすごいな。私なんかより全然しっかりしている。会話の中で「どちらかと言うと私はお姉ちゃんを叱る側だよね」と冗談半分で妹が言ったのを私はサラッと「うん、そうだよ」と納得な感じで答えた。そうすると妹が「うんそうだよって…姉の威厳とかプライドとかないのかよ、ウケる」って。妹には私にプライドがあるように見えていたのだろうか。それともあって欲しかったのだろうか。あるものだと思っていたのだろうか。妹自身も1番下の弟の姉という立場であり、妹には姉の威厳やプライドがあるから私にもあると思ったのだろうか。しっかりしていない姉で情けなくて申し訳ない。明日は仕事なのに「もう私は寝るよ、でもまだ何か話したいことがあるならそれ聞いてから寝るよ」と眠そうな声と顔で言ってくれた。私は悪いなと思いながらも今日あった嬉しかったことを妹と共有した。嬉しかった。面白かった。妹と話すと落ち着く。悪いから少しだけにしようとしたけど結局それから20分も話してしまった。電話を切る最後に妹が「生きろ〜」と棒読みで言ったのに「はぁい」と返して電話を切った。お送りしたのは情けない姉の実状です。時々、自分の美学がわからなくなる。いっそ教祖様のような圧倒的な存在や信仰があれば楽なのだろうか。私の幸福は私にしか測れないもので誰にも測らせてはいけないものだと思っている。些細なことに喜びや美しさを見出せることは良いことだと思うし自分自身や生活を助けることがあると思うからなるべくならそうありたいと思う。しかも幸せの感度が高いと本当に嬉しかった時や楽しかった時に普通の人より幸せを感じることができると思う。私はそう思っている。だけどそういう出来事が一生のうちに一回も起きなかった場合はどうなのだろう。目玉焼きが割れなかったこと、追いかけたバスが停まってくれたこと、帰り道に猫がついてきてくれたこと。そんなことを幸せと呼んでいて寂しいと思われないのだろうか。上京して4年目になるらしいが結局1人も友達を作れなかった。詳しくいうと作ろうとして遊びに行ったんだけどその次の日の朝ブロックされていた。女の子は難しいね。だから私も女の子。友達や周りに人がいないと結局ダメなのだろうか。人と関わらないと育たない心がある気がする。そういうのをもう何年も怠ってきた。私には人と触れて得られる優しさが足りないのだろうか。なぜこんなに苦しくなるのだろうか。頭がパンクしそうになる。訳の分からない涙が止まらなくなる。全てをやめたくなる。こんな生活が一体何になるのだろう。全部間違っていたような気がする。こんなはずじゃなかったのに。どこか遠くへ連れ出してほしい。頭が痛い。明日も仕事行かなくちゃ。休むなら人生ごとお休みしたい。