優しい子に育ってほしい

両親が私にくれた名前。15日の夜に実家に帰ってきた。昨日は朝から弟のリモート授業をこっそり見学させてもらったり、猫と戯れたり、ずっとここ最近ちょっと良いホットケーキミックスでホットケーキを焼きたいという欲があったので兄弟を誘ってホットケーキをたくさん焼いた。あとは夕方に友人の家に行って子供と遊んだ。というか遊んでもらった。やっぱり大人と遊ぶより疲れないかもしれない。そりゃ知能的なことで指南しなくてはいけないこと、考慮しなくてはいけないことはあるけどそんなことよりも大人と遊ぶよりずっと呼吸が合う感じがある。って私は真剣な顔で人に話したりするんだけど大体は呆れ顔でいなされる。本当なのにな。あまり得意げに話すべきことではないのかもしれないが。今の私にはそういうことは難しくてよくわからないので楽しいと感じたものの話は素直に目を輝かせて話しちゃってたい。たとえそれが恥ずべきことだと他の人から見做されても私は感じたままで生きていたい。屋根の色は自分で決める。自分の感性や言葉を持っていたい。自分の言葉を持ちたくてこのブログ始めたみたいなとこあるのかもしれない。言いたいことが言えない私だけどこのブログには書いていきたい。何のためって誰のためでもないけど無意味なことこそやっていこうよとか思う。うまく説明できないけど衝動や衝動にも満たない心の反応を記録していくことがなんか大切なんじゃないかって思って。誰からも理解されなくても良いと思えてることやものってかなり自分の中で好き度が高いのでは?って今思った。あれ、わたし言葉が好きなのかも?、、、

15日の夜に帰ってきてから今日の朝を迎えるまでちょっと躁状態だったなと思ってきた。ずっと興奮していて暑かったし喋り出すと止まらなくてずっと落ち着きがなかったし全然眠くならなかった。覚醒って感じだったかも。夜中(と言っても今日の朝の4時くらい)に妹に「今日1日ずっと躁状態だったかも。」って言ったら「あー。うんうん。」って言われた。あーうんうん。らしかった。朝4時まで妹たちと昔の話をしていた。懐メロクイズから始まり昔の話の流れになった。22時くらいから話してたはずだから結構な時間話していたんだな。今回の帰省はいつも帰ってこない2番目の妹も帰ってこれたから3人で話すと2人で話した時に思い出せなかったことも思い出せたりしてちょっと感動した。色々思い出して思ったのは昔から変わった子供だっだなということ。この歳になるまで自分の変わってるところを見ないように隠すように生きてきたのかもしれない。それが、ある日を境にその感情の蓋が外れた。ある人の存在で自分らしく生きていくことのかっこよさや逞しさを知った。私のターニングポイントと言っても過言ではない。こんな私だけど前よりはずっと自分らしくて生きやすいと思っているのだ。

みんなちゃんと生きている。逃げないで生きている。事情を抱えて生きている。実家に帰ってくるとその現実があまりにも鮮明にみえてしまって少し辛い。自分が情けなくて情けなくて。家で1人で居る時にはまた別の自責や感傷に飲み込まれる。これから私はどうするつもりなのだろう。怖くてたまらない。両親はあまり私になにも言ってこないけど言えなくさせてるのは私なんだと思う。両親が私にあまりストレートな言葉を投げてこないこと。祖母が仕事の話を一切訊いてこなかったこと。話すべきことからみんな目を背けていること。腫れ物を触るような、そういうリアルな場面が生まれるたびに血の匂いがするのだ。なにから崩れるか、誰から崩れるか。今日も一挙手一投足に混じる血の匂いに怯え苦しんでいます。事実として妹、弟、猫はかわいいよ。好きな人のことも愛してる。好きな人が自分の色は自分で決めるってツイートしてた。今日も頑張ってるよね私たち。私が魔法で守るもの。くしゃみが出て、あなたの花粉症を心配するわたしです。

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