僕にとって革命的なことなんだよ

今日もボランティア休暇の募集が出た、申請をし無事許可が下りて(多分上の人に病気のことを話したからほんの少し融通してくれているのかもしれない)勤務時間1時間で仕事を早退してきた。情け無いですねー、たしか先週は希望せずに1週間やり抜いたので許してください。いいえ、許さないで下さい。が、せめぎ合う。歩いて帰ってきてる時にふと、冷たいものが食べたいと思った。家は城なので本当に行くかかなり迷ったけど喫茶店ならまだええな、と思い家の近くのコメダ珈琲に行くことにした。

ここから店内での私のメモをコピペします。家に帰ったらちゃんと文章っぽくしようと思ったのだがその余裕が無くできませんでした。言い訳だと思われたらそうだし、そうじゃないとも言いたくはあります。なんかいま「できない」ことが多い。悲しさや虚しさが尖るので「できない」と思う自分をなるべく感じたくないとも思う。顔が濡れて力が出ない……うつ病アンパンマン…ちゃうと言いたいので言うけど、こんな自分は嫌だ!の大喜利をマジレスしてるのか?くらいこんな自分は嫌だとは思っています。でもどっちが前でどっちが後ろなのかがよくわからなくてずっと同じところでうずくまっている。コピペ。

 

 

9:46、店内賑わい、おじいとおばあと一緒に入店、そしたらなんか客がぞろぞろと入ってきた、外食あるある、そういうものだったっけな、あっという間に待つ席がなくなる、私は座っている、ただ冷たいものが食べたいという理由でここに居ていいんだろうか、想像と違う、すかすかでのんびりした時間が流れているのかと思った、完全に主婦のテリトリーだ、10時、なるほど掃除洗濯を終えて一息つきたい時間だ、小さい子もいる、よくよく家にいたほうが良かったかもしれないと思う、15分経っておじいおばあが席に呼ばれた、背中の汗が冷えてすこしひんやりして時間の経過を感じた、6日に関東は梅雨入りしたそうだ、今日は思ったより晴れた、ありがとうございます、これで「明日の天気降水確率30%ってほんとかー?」と恐る恐る洗濯物を外に干した昨夜の私が報われます、私が外に洗濯物を干すと雨が降るというジンクス、覆す、あざす、ここに来る間に実は行くか迷っていた場所がコメダの他にもう一つある、新宿ピカデリーです、舞台挨拶があるのです、仕事で行けないと思ってたからチケットない、チケットないから無理だと思いながらもTwitterを開いて「BiSH 映画 チケット」と検索していた、やっぱり無かったけど、待っている間に映画の記事を熟読、今日公開の映画でもう一つ観たいと思っていたものがあったけど観に行くならそれも新宿ピカデリーで…なんかそんなことっていいの?って気が引けたので足はコメダへと運ばれた、それに、仕事早退させてもらっておいてノコノコと!それが早退者の振る舞いなのか!?早退者は早退者らしくせい!みたいな風に私の心のめんどくさいジジイが思っちゃったし、正解は粛々とコメダ、あーこ?

 

10:04ササナカ様、私だ、あなたの番ですそうですわたしの番です、ここに書いている時点で本名ではないことがわかると思う、店で名前を書くとなれば私は本名を書かない、特段理由はないのだが、強いて言うなら苗字が珍しい方で店員さんが発音に困ってしまわないか?とか呼ばれて他の待っている客に何か思われたりとかを想像してしまうからかもしれない、だからパッと浮かんだありそうな苗字を書いている、一番使用率が高いのは山田と佐藤、だけどこの二つは被るリスクもあって使い易いようです使い難いところもある、ザッと見て山田と佐藤が居ないかの確認が必要になる、なのであるだろうなというパッと浮かんだ苗字が良い、忘れないようにメモに今日の苗字「ササナカ」と打ち込む、妹とご飯を食べる時もこれは適用される、妹と一緒だとだとこんな事もひとつの遊びになる、普段とは打って変わってとびきり珍しい苗字を書くのだ、店員さんがその名前を見て少し間を置いちゃうくらい且つまぁ、でもあるっちゃあるか…みたいな良い塩梅のところを。もしかしたら店員さんに悪いかもなと少し思いつつも、でもTwitterとかに上がるようなのぼせた連中の悪ふざけなんかよりは何倍もマシだと思ってやらせていただいている、私たちのはわたしたちだけで完結させる遊びで誰も巻き込むことはない、という私たちの正しさの上に成り立っているものだ、私たちだけにしかわからないものであるからこその楽しさがある、おススメです、誰にオススメしているの?という話はしないでください、ササナカはミニシロノワールとバナナジュースを頼んだ、コメダ珈琲と言ったらシロノワールらしい、本で何度かシロノワールを食べてる人たちを見てきたから知ってる、デニッシュにソフトクリームが乗ったやつ、田舎生まれの私にはデニッシュonアイスと言ったらココスのココッシュだった、なんとなく食べなくても味が想像できるからという理由であまり頼んだことはなかったけどココスの定番デザートだからココスに行くと客の誰かしらは食べていたから私が食べなくてもしっかり根強い人気はあるのだと思っていた、ココスのデザート=ココッシュのイメージがこうして構築された、バナナジュースを頼んだら11時まではドリンクを頼むとパンとトッピング各種のセットが無料らしい、コメダは高いのか安いのかわからんと思った、私みたいな客を撹乱させようとしているのか?店員さんに注文の時に訊かなくてごめんね?(雑な意訳)って言われて「全然大丈夫です」と頭を下げながら微笑んで見せたぜ、数量限定のパンか食パンの二択で数量限定の文字に負けるいつもの癖が出て咄嗟に数量限定を指差していた、数量限定パン、付け合わせはゆで卵、あとはジャムかバターを選ぶだけだった、が、ここで頭の中にひとつ思い出したことがあった、かわいいお皿にパンが載った写真だ、喫茶店で食べたパンが忘れられなかった、というツイートを私は忘れられなかった、気がつくと「あ、やっぱり全部変えても良いですか、ごめんなさい。」と店員さんに言っていた。選ばれたのは、、、

 

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小倉トーストを食べながらこの食パンは半分だから今私はこの店内にいる誰かもしくはこれから注文する誰かと食パン1枚を分け合っているということだろうか?と思った。そう思っていると「モーニングセットをこちらからお選び下さい」という店員の声が聞こえた、思わずそのやり取りに耳を立ててしまっていた、山食パンで…A(ゆで卵)で…バターで……さっきの私まるっきり一緒だった、多分このふたつが2台巨頭のパターンだよね、そうなんだろうな、なんでもパターンとか傾向みたいなのは決まってくるのだ、私の逆張り精神も時にはあっけないものなのだ、そのパターンに純粋に当てはまっている時だっていくらでもあるのだ、みんなもそうだったと聞いて安堵したり苦しめられたりするのだ、わかっている、各々の選択、なににでもそれぞれの選択がある、側から分からなくてもその人がその選択をしたということは何かしらの整合性はあるのだ、以前読んだ本で社会学を用いて人生や生き方を解くという感じの章があった。認知バイアス、人間のパターン、脳科学、進化論、などなど、とても学ぶことが多い本だった。pha著「人生の土台となる読書」という本です。読む前と読んだ後とでは考え方が少し変わるような本だった。人間のこういうところはこうだから仕方ないとかを書いてあるんだけど、言い訳ではなくちゃんとした根拠のもとにきちんとそれが成り立っているように思えたから余計説得力のある本だった。phaさんが本で得た知識を話している本なのだがその中からひとつ抜粋して紹介したい。フランスの社会学者・ブルデューの『ディスタンクシオン』という古典的な名著を、同じく社会学者の岸政彦が解説するというNHKの番組テキストのなかで、ブルデューは、「こういう家に育ってこういう学歴を持っている人は、こういう写真が好きでこういう音楽が好き、という明らかなパターンがある」ということを、アンケート調査を元にして解説する。 そしてその調査の結果を見ると、学歴の低い人が選びやすい写真や音楽と、学歴が高い人が選びやすい写真や音楽は、明らかに違っていたのだ。ブルデューは、写真や音楽といった文化的な趣味の話をきっかけにして、最終的には「人間の選択というのは自由ではない。環境によって定められているものだ」という事実を明らかにしていく。そして、ブルデューの考え方を受けて、岸さんは人間の自由について次のように語る。


『自由とは、何でも好き勝手にできるとか、どんな自分にでもなれるということではありません。持って生まれたものに方向付けられ、生きる社会の構造に縛られ、それでもその中でなんとか必死に生きている。自由とはそういうものだと考えているからです。』


ここでもっとも重要なのは、「人間は環境によってかなりの部分を決められている」という考え方は、他者への理解や優しさを生み出す、ということだ。自分とちがう人に対して「理解できない」「間違っている」と切り捨てるのではなく、「あの人と同じ環境だったら私も同じように考えていたかもしれない」「自分の考えはたまたま育った環境のせいにすぎない」と想像してみると全く気が合わない人に対しても寛容になれるのではないだろうか。一見すると非合理的な行為をしている人でも、その人が生きている世界の構造や文脈を丁寧に見てみると、相応の合理性があるのです。
こんなに抜粋したらいけないのかもしれない。謝ります。本の方々へ、申し訳ございません。良かったので載せてしまいました。

 


12:24コメダを出る、すっかり服が油臭くなった、家の近くの公園なんとなく私っぽくて頑張れと思う、まだ人が遊んでいるところを見たことがない、頑張れ

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帰宅即油臭くなった服を脱いで洗濯機にポイ、もう部屋着に着替えるのもちょっと不快だったのでそのまま風呂へ、久々に暗い風呂で湯船に浸かった、こころくつろぐ黒川温泉だってさ、いいえ違います、私が本当に心がくつろぐのは君といる時です、君でなければ、泣いてしまうわ、泣いてんのか水なのかわかんないからお得です、君と会う日が近づいているらしいのだけど実感がないです、そんなものか、次会う時のことを想像するだけで崩れるようにして泣き始めてしまう、だって限りある頼みの綱だと思ってしまっているから、やまんばに3枚しか無いお札を投げつけるおしょうさんの気持ち、今年はあと何回会いに行けるのか、僅かだということだけはわかる、次が今年最後になる可能性だって十分ありえる、数少ないお札を自分のために使ってもまたここに戻ってきてしまうのが怖いんだ、「もうこれでほんとうに何もないよ」と私が私に言うのが見えるのだ、少し良くなってもまたここに戻ってきてしまった時、もっと深い絶望になることを私は知っている、今ある楽しみを黒い膜が覆っている、怖いんだ、手放しに喜べない自分が、不安なんだ、それでも君を傷つけたくない、君をこちらへ引き込むことはしたくない、共にありたいけど君が笑ってていい時に思い切り笑えなくさせてしまったとしたら私はそんな自分を許せないと思う、惨めで醜く思うかもしれない、何もかもが怖いんだ、無気力無関心無欲の裏には巨大な恐怖が潜んでいる、慄いて動けない、できない、感じることができない、自分が怖い、いまの自分がどう思ってしまうのかが怖い、それでも君を好きだと言いたい、これだけは言いたい、君との出会いは間違いなく私の人生の光だと、今もぬるくなった暗い風呂で君のことを考えている、好きだよと言いたい、ずっと私がこんな感じだから信憑性がどんどん薄くなってると思う、そうは見えないから言わないで?って、こんなに好きなのに、私はこの調子でもう少し行ってしまうのだろうか、今はそのイメージしかできない、こうして君を振り回している、信じられなくなったら信じなくていいよ、あなたが賢い人なら、つくづく自分で自分の首を絞めてると思う、ごめんねでいっぱい、ありがとうでいっぱい、14:38風呂を出る、それでも君のことを想ってしまう、また涙、どうしたらここからでれるの、君のことが好きなことだけわかる、この私だけはどこにも行かない

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