I am sensitive.

昨日は仕事を12時で早退した。

会社から出ると雨が降り始めた。今日は曇りだと思っていた。だから傘を持ってこなかった。雨に打たれながら歩いて帰った。いつも降られる。ついてなかった。

 

今日は好きなバンドの映像作品のフラゲ日だからこれから最寄のタワレコに行こうかなとか考えながら歩いていた。その前に干してきた洗濯物を取り込なくちゃなぁ。家に帰って取り込んで濡れた服を着替えてタワレコに向かった。家を出るときに「そういえば最近撮ったフィルムを現像しなくちゃ」と思い出して、フィルムカメラを探していた時にいつ撮ったのかわからない写ルンですを見つけた。いつ撮ったのかはわからないけどまぁまぁ前のだということはわかっていた。多分まだ実家に住んでいた時の、だから3、4年前?何を撮ったのかも覚えていないけどフィルムカウンターが0になっているから何かは撮っている。私はフィルムと写ルンですをもって家を出た。少しワクワクしていた。

 

近くのタワレコまでは電車で30分。モールの中に入っているタワレコで、地方のタワレコには行ったことがなかったけどいかにも地方のタワレコって感じだった。平日の昼間ということもあり、静かで人気がなかった。人混みや同じファンの人に会ったりするのが苦手な私にとっては居心地が良かった。まだ展開がされていなかったのでレジの人に訊こうと思いレジの列に並んだ。なんか耳がいいから前のレジの人の会話が聞こえてしまった。どうやら同じファンだった。心の声(すげ。人気だなぁ、PEDROさん。恐るべし…そりゃそうか…)そんなこんなで無事買って、フィルムの現像データも受け取って帰路についた。帰りの電車の中で現像したフィルムの写真を見ていた。データを受け取る時にお店の人に「全部あるか確認してください」的なことを言われるのだけれど、4年前の写真らしきものが見当たらなかったので「あれ、これって写ルンですの写真は入っていますか?」と訊いた。店員さんが何か少し確認してまた私の方を見て「そうですね…入っていますね…このネコちゃんがいっぱい写っている方が4年前くらいのお写真になると思うんですけど…」と私の携帯に写っている写真たちを指差した。「ここまでが写ルンですに入っていた写真です」と再度私の携帯に映る写真と写真の繋ぎ目を区切るような指の動きで差した。「あっ、そうなんですね、すみません…ありがとうございました。」と店を後にしたのだった。電車に揺られて全部の写真をゆっくりと見ていると本当に4年前の写真と最近の写真の区別がつかなかった。4年前はフィルムカメラも持っていなくて写ルンですなんかを日常使いしていたわけでもなかった。けどきっと何か撮りたかったから買ってわざわざ今日まで大切に保管していたんだろう。私が忘れていた記憶が眠っているかも知れないとか、僅かながら思ってしまっていた自分も事実だった。4年前の写真に写っていたものはほとんど実家の猫ばかりだった。よく見比べると4年前の写真の猫の方が気持ち一回り小さいかな?という感じで、なんというか、とてもつまらなかった。勝手にがっかりしてしまった。真実のように思えて仕方なかったからだ。私のなんの変哲もない何も起きない平凡で退屈で空っぽな毎日も同じ日々の繰り返しなのではなくて今日しかない今日を生きているのだと信じ祈りながら自分に言い聞かせて今も生きている。だけど4年前の写真と今の写真の区別もつかない。それだけが真実として残っているように思えてしまった。体の中に自分自身に見つからないように隠し散らばっていた虚しさが一気に心に集まったような気持ちになった。心に影をつくった。外の雨は来る時よりも強くなっていた。

現在↓

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約4年前↓
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帰宅して早速ドキュメンタリーを観た。129分。観終わったあと、なぜ今自分がこんな気持ちになっているのかわからなかった。モヤモヤしていた。今自分がどういう気持ちだっていうのが自分でもうまく掴めないでいた。ドキュメンタリー映像に不快に思った場面があったとか、がっかりしたとかいう場面はなかった。なのに私は孤独感のようなものを感じていた。わからないままぼーっとしているとお昼ご飯を食べていないことを思い出した。キッチンへ向かう。目についた使い道を考えられず放置していた長ネギ3本を取り憑かれたようにひたすら切った。斜め切り、小口切り、白髪ネギ、白髪ネギを切るといつもお父さんに頼まれて白髪ネギを切っていた時のことを思い出す。不仲で母には頼めないから私にそういうのは回ってきた。嫌じゃなかった。料理は好きだ。自分のための料理は面倒に思えてしまっても、誰かのために作るということなら気が向いた。断ってしまったこともあったけど。父が料理しないわけではないのだけどキッチンというのは母のテリトリーだからだんだんだんだん父は排除されていき、今ではほとんど自分の部屋にしか居ない、居れなくなったとも言える。話が逸れたので戻す。

何を作るでもなくネギを切って鍋に火をかけてお湯を沸騰させて冷蔵庫の中を物色して目的もなくほうれん草を湯がいた。その次にうどんを茹でた。その次に納豆を混ぜた。ここまでやって「何をやっているんだろう」とやっと思った。この意味不明な挙動もまた私の心の様だった。凄まじい空虚感に襲われ、急に涙が止まらなくなった。うどんを茹でている鍋からはお湯が溢れた。自分の足で立っていられなくなり、うずくまりキッチンマットの上でしばらく泣いた。真っ暗なトンネルの中に見えていた小さな光が直線距離にするととても遠い存在であると気づいてしまい、途方もなくなり絶望を覚えた。こうなりたくなかった。あの人に後ろめたい気持ちになった。知られたくないと思った。こんな気持ちになったと知られたら今度こそは見放されると思った。今の自分の気持ちとは裏腹に強い罪悪感を感じていた。「ここまでしてやったのに、それでも君はちっとも変わらない」「そうやって、あなたはいつもそうだよね」「あなたは何も変わっていない、変わろうともしなかった」「もうあなたにはついていけないです」過去に途切れた人から言われた言葉や顔が浮かんだ。「苦しい」など言ってはいけない気がしてきてどうすればいいのかわからなくなった。自分の現在地を見失ってしまったように感じた。

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他のアーティストのことは全くと言っていいほどわからないのだけど、ドキュメンタリー映像を毎回作って出している人ばかりではないだろう。私は毎回出るこのドキュメンタリー映像が好きだ。ステージじゃ触れられないもの、受け取れないもの、見つけられないものが映っていると思うからだ。まだ言葉や表現になる前の見えない心の波の様子が在るように思えるからだ。今回もとても良かった。活動休止前の半年がありのままの形で映っているように思えた。目まぐるしいのでしょうと、ひとことに言えてしまっても、実際の映像を観るとやはり想像の何十倍も目まぐるしかった。私は以前からこういう現状を目の当たりにすると「あぁ…やはりこの人とは生きている世界が違う…同じ世界にいて私の歩く延長線上にいるなんてどうしてこんな烏滸がましいことを思ってしまっていたのだろう…」と俯瞰に入ってしまう癖がどうしてもある。だけどそれをも上回るあの人の表情や本物の言葉が私には光にうつってしまう。私の話す言葉はこの人だけとは同じだと思ってしまうのだ。仕草や振る舞いの端々にいつかの自分を見てしまうのだ。あるいは私もきっとこうするだろうと思ってしまって、やっぱり私の歩く延長線上にあの人がいる気がしてしまう。傲慢な考えを私は諦めきれないのだ。なんて厄介なファンと出会わせてしまったんだろう。申し訳なくなる。そんなことを考えられるくらいの自分の傲慢さに鳥肌が立つ。これで私があの人の思考のどこにもいなかったら私は一体どうするつもりなんだろう。ねぇ、どうするつもりなの?

 

今書いてるのはキッチンで泣いてから10時間くらい経っていて、割と落ち着いている。正直過ぎるほどに綴ってしまって後悔するかもしれない。だけど私はこの自分の気持ちを蔑ろにしたくなかった。なかったことにしたくなかった。人の気持ちというのは複雑でわかりにくくて時に単純である。映像の中のあの人がありのままであったように、私もありのままでいたかった。普段の私は間違えないように誰も傷つけないように、どこにも行かず黙っている。でもその怖がりが惜しいものであるとも同時に思っている。だからここには書こうと思って始めたこのブログだった。だから書いた。あと少し書く。

 

カメラには映らない美しいものは沢山ある。わかっている。わかっているけど、映像になるとそれがどうしてもわかりやすい事実として目立ってしまう。そうとしたときに、私が見ていた日々とあの人が見ていた日々の差異や相違が悲しくもなった。照らし合わせた時にやはり自分だけが異物であってここに居てはいけない気がしてくる。そんな自分の思考にもうんざりした。長い目で見たときに、きっとこの作品はもっと良いものになっていくのだろう。私の目にも今よりもっと美しく映るのだと思う。作品の中のあの人はひたすらに美しくて逞しかった。優しすぎるほど優しかった。危うさを感じるほど素朴な少女の姿があった。私が大好きな人だ。出会った時からこの姿にずっと惹かれているんだ。なりたい。陰と陽の気持ちを抱えた時に私は自然と暗い方ばかりを気にしてしまうから、長々と暗いことを書いてしまったけどそうじゃない。あの人だけに焦点を当てて話せば良いところしかないよ。良いことについても同じくらい書けるよ。でも私が傲慢だから、私の生活や記憶とを織り交ぜて考えてしまったからこうなった。私はいつも人の汚点になる。時にあまりの眩しさに目が眩む時がある。それは誰も悪くはなくて、まだ私が光の明るさや眩しさに慣れていないというだけだ。悪く伝わってしまってたら嫌だな。仕方ないことかな。難しい。人と人だから。私の心の未熟さを許してほしい。甘えかな。弱さかな。これだからずっとだめなのかな。こんなに好きなのに。そうじゃないみたいだ。嘘みたいだ。本当のことを書くのはやめた方がいいのかな。だけど今日も本当に好きだったんです。

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